(シリーズ:はままつの街道物語①)姫街道の由来

古来、浜松は交通の要所として多くの人が行き交うにぎやかな場所でした。そんな浜松市内に今も残るいろいろな街道の面影を追い、当時の様子やその場所の今を紹介します。周辺地域の特色ある逸品も紹介。姫様道中などを見ると、華やかな雰囲気がする姫街道ですが、姫街道と呼ばれ始めたのは、幕末のほんの少し前からといわれています。江戸時代は、正式には「本坂通」と呼ばれていました。姫街道と呼ばれるようになったのには、いろいろな説がありますが、以下の三説が有名です。
1.女性の往来が多かったことから、「入り鉄砲と出女」で有名な新居関所の厳しい取調べを避けるため
2.波が荒く、航海が危険な今切れ渡しを避けるため
3.「今切」という不吉な言葉を避けるため

他にも、「ひなびた」「ひねた」街道であったことから、本街道である東海道を男と見立て、脇往還である本坂通を女として「ひめ」という語句を当てたという説や、江戸時代は一般的に各地の脇道を「姫街道」と呼んでいたという説もあります。こうして諸説をみていくと、華やかな姫様道中と姫街道が、直接は結びつかないのですが、徳川吉宗のお母さん(浄円院)の1万人もの大行列が通るなど、大名や姫様、公家が行き来していたとの記録や、ベトナムの象が通行したという驚くべき記録もあります。

【地域の逸品】
北区細江町に「枡形」と呼ばれる石垣があります。本来、道の両側に鍵形の石垣を儲け、外敵の侵入を防ぐ施設。ここが気賀宿の入り口でした。道路の拡幅のため、今は片方だけ残されています。この石垣に、ひょうたん形の石が組み込まれています。江戸幕府の厳しい交通政策のために設けられた、気賀関所の枡形。昔の人の粋な遊び心を感じることができます。

姫様道中

ひょうたん形の石

枡形

 

(参考出典/浜松市公式Facebook「いいら!プラス(Plus)」

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