1579(天正7)年、家康公の正室・築山御前と長男・信康が敵方と内通したとの疑いから、織田信長の命令で、家康公は2人の処刑を家臣に命じたといわれています。岡崎城から浜松城へ向かうため佐鳴湖を船で渡った築山御前は、待ち伏せていた家康公の家臣により命を奪われ38年の短い生涯を閉じました。その刀の血を洗ったのが大刀洗の池、亡くなった場所が御前谷と呼ばれています。現在大刀洗の池は埋め立てられ、少し離れた浜松医療センター駐車場の片隅に碑が残っています。
(参考/浜松観光コンベンションビューロー)
1579(天正7)年、家康公の正室・築山御前と長男・信康が敵方と内通したとの疑いから、織田信長の命令で、家康公は2人の処刑を家臣に命じたといわれています。岡崎城から浜松城へ向かうため佐鳴湖を船で渡った築山御前は、待ち伏せていた家康公の家臣により命を奪われ38年の短い生涯を閉じました。その刀の血を洗ったのが大刀洗の池、亡くなった場所が御前谷と呼ばれています。現在大刀洗の池は埋め立てられ、少し離れた浜松医療センター駐車場の片隅に碑が残っています。
(参考/浜松観光コンベンションビューロー)