- Home
- 過去の記事一覧
タグ:家康
-
家康の散歩道(シリーズ9/15)犀ケ崖古戦場
三方ヶ原合戦で大敗を喫し、命からがら浜松城に帰り着いたその夜、家康公は武田信玄に一矢報いるべく、鉄砲隊をひきいて夜襲をかけました。地理不案内な武田軍は混乱し、次々と犀ケ崖の深い谷に転落し、多くの命を失ったと言い伝えられて… -
家康の散歩道(シリーズ8/15)本多肥後守忠真の碑
犀ヶ崖資料館の敷地内の東に、本多肥後守忠真の戦功の碑があります。後に「徳川四天王」の1人として名高い本多忠勝は、忠真の甥にあたる人物です。武田軍との戦いで敗戦が濃厚担った際、忠真は主君家康公の命を守るため、自ら殿(しんが… -
家康の散歩道(シリーズ7/15) 浜松城
遠江の経路拠点としては引間城が手狭であったことから、家康公は西南の丘陵地に大規模な築城を行いました。1570(元亀元)年に家康公が浜松城に入城した際に、引馬を浜松と改めたといわれています。現在残っている遺構は天守曲輪を中… -
家康の散歩道(シリーズ6/15)家康公鎧掛松
市役所の西側にある「鎧掛松」。この松は三方ヶ原合戦に負け、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでその松に欠けたと言われていることからその名がつけられました。現在の松は3代目にあたり、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったと… -
家康の散歩道(シリーズ5/15)五社神社諏訪神社
五社神社は、もともと浜松城内に祀られていましたが、2代将軍秀忠公の産土神(うぶすながみ:生まれた土地を守護する神)として家康公の命で現在の地に遷座しました。また、諏訪神社は3代将軍家光公の命により現在の場所に遷座。徳川家… -
家康の散歩道(シリーズ4/15)東照宮(引間城趾ひくまじょうあと)
東照宮は1886(明治19)年に創建されました。石の鳥居の横に「曳馬城跡」と刻まれた史跡碑があります。社殿の扉や屋根には三つ葉葵の紋所が見られ、家康公を祭神としているお社であることを示しています。1568(永禄11)年に… -
浜松藩の領地境界の標柱(ひょうちゅう) 浜松市南区
江戸時代、宝永二年(1702)に高塚(当時は高塚村)は堀江領になったが、増楽(増楽村)以東は浜松領であった。これはその領地の境を示すために建てられたしるし(標柱)です。かつてはこの場所より西側にありましたが国道拡幅整備に… -
家康の散歩道(シリーズ3/15)椿姫観音
亡き夫、飯尾豊前守に代わり、引間城主となったお田鶴の方。しかし徳川勢との戦いの末、命を落とします。母同士が義理の姉妹にあたる築山御前(家康公の正室)は彼女の死を哀れみ、塚の周りに100株余りの椿の花を植えたと言われていま…